会社から、退職後に同業他社に再就職することを禁止されたという相談(労働問題)
2024年09月08日労働事件
※相談事例はすべて架空のものです。実在の人物や団体などとは一切関係ありません。
【相談】
Q、会社から、突然「退職後、同業他社への転職を2年間禁止する」という誓約書の署名を求められました。就業規則にも、退職後の再就職について制限規定を置いたそうです。同僚はサインしているようですが、私はサインしたくありません。サインしない場合どうなるでしょうか。
A、サインしなくて良いです。サインしなかったことを理由に解雇したとしても解雇は無効と判断される可能性が高いです。そして、サインをしなければ競業禁止規定の効力はあなたには及ばない可能性が高いと考えます。仮にサインしてしまった場合は、弁護士をつけて無効を主張しておくべきこともあるでしょう。
【解説】
この誓約書の目的は、就業規則の変更に従う旨の同意書を取るということだと思いますが、同意しなかったとして解雇される理由にはなりませんし、同意を取られてしまえば、同意さえしていなければ無効と主張できた競業避止規定が有効になりかねません。
同意をしなかったとして、このような規定変更の有効性ですが、競業禁止規定は①競業制限の目的(会社の機密を守る必要がある等)、②労働者の地位(機密に触れるような地位にあったか等)、③競業制限の期間・範囲が妥当か、④代償の有無,といった点により有効性が判断されます。具体例としては、代償措置がなく、2年間の同業他社(隣接県まで含む)への就職を禁じた誓約書について、競業避止義務を認めた裁判例も存在します(東京地裁平成14年8月30日労働判例838号32頁ダイオーズサービシーズ事件)。もしかすると、会社はこの裁判例を根拠にしているのかもしれません。
しかし,これはあくまで労働者が誓約書を書いていた事例です。元々競業避止義務の負担を負っていない労働者が(なお,営業秘密の不正利用は不正競争防止法で禁止されていますが,競業自体は禁止されていません)、新たに競業避止義務を負わされるという場合は話が違ってきます。就業規則の不利益変更にあたり、不利益を正当化するような合理性があるようにも投稿では見えませんので、有効とするのは難しいと思います。もっとも、就業規則の不利益変更の問題は実際の条項と労働実態などを見ないと有効性が判断できないものです。
弁護士の面談相談をお勧めいたします。
【参考裁判例】
■28080244
東京地裁
平13(ワ)21277号
平成14年8月30日
原告 株式会社ダイオーズサービシーズ
代表者代表取締役 甲野一郎
訴訟代理人弁護士 久保田康史
同 中山ひとみ
同 河津博史
被告 乙山二郎
訴訟代理人弁護士 山川隆久
主文
主文
1 被告は原告に対し120万円及びこれに対する平成13年10月21日から支払済みまで年5分の割合による金員を支払え。
2 原告のその余の請求を棄却する。
3 訴訟費用はこれを10分し,その3を被告の負担とし,その余を原告の負担とする。
4 この判決は,第1項及び第3項に限り,仮に執行することができる。
事実および理由
事実及び理由
第1 請求
被告は,原告に対し,437万2703円及びこれに対する平成13年10月21日から支払済みまで年5分の割合による金員を支払え。
第2 事案の概要
本件は,原告が,被告に対し,秘密保持義務又は競業避止義務に違反して原告の顧客を奪ったとして,債務不履行又は不法行為に基づく損害賠償437万2703円及びこれに対する訴状送達の日の翌日である平成13年10月21日から支払済みまで民法所定の年5分の割合による遅延損害金の支払を求めた事案である。
1 争いのない事実等(証拠で認定した事実は,末尾に証拠を示した。証拠の記載がない部分は争いのない事実である。)
(1) 当事者等
ア 原告は,清掃用品,清掃用具,衛生タオル等のレンタル及び販売等を目的とする株式会社であり,株式会社ダイオーズ(以下「ダイオーズ社」という。)の100パーセント子会社である。
(〈証拠略〉。一部争いがない。)
イ ダイオーズ社は,コーヒーサービス事業のほか,株式会社D(以下「D社」という。)とフランチャイズ契約(D社の事業に関わるノウハウ,情報の供与を受け,そのノウハウ,情報に基づいて営業することを内容とする契約である。以下,同様である。)を締結し,同社からマット,モップ類の商品の提供を受け,「Dダイオーズ」という呼称を用いて,クリーンケアサービス事業を展開していた。
ダイオーズ社は,平成12年1月1日,クリーンケアサービス事業を含む事業部門を分離して原告に営業譲渡し,持株会社になった。これに伴い,D社とのフランチャイズ契約における契約上の地位は原告に承継され,また,ダイオーズ社の事業部門に属していた従業員も原告に移籍された(ダイオーズ社を退職し,原告に入社するという取扱いであった。)。(〈証拠・人証略〉,弁論の全趣旨。一部争いがない。)
ウ S商事有限会社(以下「S商事」という。)は,D社の商品の貸付,芳香消臭器及び衛生器具の販売等を目的とする有限会社であり,本店をさいたま市(登記簿上は浦和市である。)〈以下略-編注〉に置き,D社とのフランチャイズ契約に基づいて,「D中尾支店」を開設している。
(〈証拠略〉,弁論の全趣旨)
(2) 被告とダイオーズ社の関係等
ア 被告は,平成2年10月1日にダイオーズ社に入社し,埼玉支店,城西支店にて勤務した後,平成10年から再度埼玉支店に勤務していた。
イ 被告は,ダイオーズ社に対し,同社の求めに応じ,「就業期間中は勿論のこと,事情があって貴社を退職した後にも貴社の業務に関わる重要な機密事項,特に『顧客の名簿及び取引内容に関わる事項』並びに『製品の製造過程,価格等に関わる事項』については一切他に漏らさないこと。」及び「事情があって貴社を退職した後,理由のいかんにかかわらず2年間は,在職時に担当したことのある営業地域(都道府県)並びにその隣接地域(都道府県)に在する同業他社(支店,営業所を含む)に就職をして,あるいは同地域にて同業の事業を起こして,貴社の顧客に対して営業活動を行ったり,代替したりしないこと。」旨記載した平成7年6月13日付け誓約書(以下「旧誓約書」という。)に署名押印して提出し,同社はこれを受領した。(〈証拠略〉)
(3) 被告と原告の関係等
ア 被告は,平成12年1月1日,ダイオーズ社から原告への事業部門の営業譲渡に伴い,ダイオーズ社を退職し,原告に入社する旨の取扱い(移籍)を受けた。
被告は,平成12年1月以降,原告のクリーンケアサービス事業本部(当時は「レンタルサービス事業本部」と呼ばれていた。)埼玉ルートセンター(以下「埼玉ルートセンター」という。)に所属し,埼玉県内において,「ルートマン」として,レンタル商品の配達,回収等の営業を担当した。
イ 被告は,原告に対し,原告の求めに応じ,「就業期間中は勿論のこと,事情があって貴社を退職した後にも,貴社の業務に関わる重要な機密事項,特に『顧客の名簿及び取引内容に関わる事項』並びに『製品の製造過程,価格等に関わる事項』については一切他に漏らさないこと。」及び「事情があって貴社を退職した後,理由のいかんにかかわらず2年間は在職時に担当したことのある営業地域(都道府県)並びにその隣接地域(都道府県)に在する同業他社(支店,営業所を含む)に就職をして,あるいは同地域にて同業の事業を起して,貴社の顧客に対して営業活動を行ったり,代替したりしないこと。」旨記載した平成12年2月4日付け誓約書(以下「本件誓約書」という。)に署名押印して提出し,原告はこれを受領した。(〈証拠略〉)
ウ 原告は,平成13年6月15日付けで被告を懲戒解雇する旨の意思表示をした。
被告は,解雇後まもなく,S商事とサブフランチャイズ契約(D社とS商事からD社のフランチャイズ事業に関わるノウハウ,情報の供与を受けることができ,そのノウハウ,情報に基づいて営業することを内容とする契約をいう。以下,同様である。)を締結し,同社のD中尾支店にて営業活動を展開している。(〈証拠略〉,弁論の全趣旨。一部争いがない。)
(4) 原告及びダイオーズ社の就業規則
ア ダイオーズ社の就業規則(平成7年4月1日に施行されたものである。以下「平成7年就業規則」という。)には以下のような定めがある。(〈証拠略〉)
「27条 従業員は,職務上知り得た会社の秘密を退職後と言えども最低2年間は他に漏らしてはならない。また,会社の許可を得ないで同業,同種の企業に就職すること,もしくは同業,同種の営業の部類に属する取引を退職後においても最低2年間は行ってはならない。」
イ 原告の就業規則(平成12年1月1日に施行されたものである。以下「平成12年就業規則」という。)には以下のような定めがある。(〈証拠略〉)
「27条 就業期間中はもちろんのこと,事情があって退職した後にも,会社の業務に関わる重要な機密事項,特に『顧客の名簿及び取引内容に関わる事項』並びに『製品の製造過程,価格等に関わる事項』については一切他に漏らしてはならない。
28条 事情があって退職した後,理由のいかんにかかわらず2年間は在職時に担当したことのある営業地域(都道府県)並びにその隣接地域(都道府県)に在する同業他社(支店,営業所を含む)に就職をして,あるいは同地域にて同業の事業を起してはならない。」
2 争点
(1) 被告の債務不履行(秘密保持義務違反,競業避止義務違反)又は不法行為の有無
(2) 被告が支払うべき損害賠償額
3 争点に関する当事者の主張
(1) 争点(1)について
(原告の主張)
ア 被告の債務又は注意義務
(ア) 被告は,本件誓約書及び平成12年就業規則に基づき,原告に対し,秘密保持義務及び競業避止義務を負っているというべきである。
(イ) 被告の公序良俗違反の主張について
被告は,本件誓約書及び平成12年就業規則と同様の競業避止義務を設定した平成7年就業規則27条の内容自体が,職業選択の自由を侵害し,公序良俗に反して無効となるかのように主張している。
しかし,「期間および区域を限定しかつ営業の種類を特定して競業を禁止する契約は,特段の事情の認められない限り営業の自由を不当に制限するものではな」く,公序良俗に違反するものではないところ(最高裁第3小法廷昭和44年10月7日判決),本件誓約書及び平成12年就業規則28条の定める競業避止義務が「期間および区域を限定しかつ営業の種類を特定して」競業を禁止していることは明らかであるから,その内容は何ら公序良俗に違反するものではない。
(ウ) 就業規則の不利益変更に関する被告主張について
また,被告は,平成7年就業規則27条の制定が就業規則の一方的不利益変更の要件を満たしていない旨主張している。
しかし,ダイオーズ社が平成7年就業規則27条を制定するにあたり,被告は旧誓約書を提出して競業避止義務の設定に同意しているのであるから,被告の前記主張はその前提を欠くものであり失当である。
また,前記就業規則変更は,〈1〉原告が多大の費用と労力を費やして獲得した顧客を退社した従業員から奪取されることを防止する高度な必要性に基づくものであること,〈2〉競業避止義務の設定は,少なくとも在籍する従業員には何ら不利益を被らせるものではなく,むしろ顧客奪取の防止を通じて利益を生じさせるものであること,〈3〉期間および区域を限定しかつ営業の種類を特定して競業を禁止するものであること,〈4〉労働組合の同意も得ていること等に照らせば,いわゆる一方的不利益変更の要件も充足していることは明らかである。
(エ) 就業規則の限定解釈に関する被告主張について
被告は,就業規則を限定解釈することについて,就業規則は使用者が一般的に制定する規範であり,労働者の予測可能性を損ねることから,許されない旨主張している。
しかし,前記被告主張は,被告独自の見解に基づくものであり,失当である。就業規則上の労働者の義務を限定的に解釈し,あるいは,違法性の高い行為に限って不法行為ないし債務不履行の成立を認めることが否定されなければならない理由はない。
労働者が在職中担当していた顧客に対する知識,経験及び顧客とのつながりを利用して契約を破棄させ,顧客を奪取する行為が債務不履行及び不法行為を構成することは明白であり,被告自身,その違法性を十分に認識しながら顧客奪取行為に及んだことは間違いない。
イ 被告の債務不履行又は不法行為
(ア) 被告は,原告を退社後,原告の従業員として知り得た顧客,取引内容,価格等に関する情報を利用して,かつて直接担当していた原告の顧客に対し営業活動を行い,平成13年9月30日までに,原告の顧客のうち少なくとも別紙顧客目録〈略-編注〉記載の顧客(以下「本件顧客」という。)36件について,原告とのレンタル契約を解約させ,原告に損害を被らせたものである。
この行為は,本件誓約書及び平成12年就業規則28条の定める競業避止義務に違反するものであり,不法行為及び債務不履行を構成する。
(イ) 被告は,平成7年就業規則27条を一部でも有効とするには,競業の種類を原告の営業秘密を侵害して行う競業に限定する必要があるとした上で,顧客名簿が平成12年12月にD社に開示されていることを理由に被告は営業秘密を侵害していないかのように主張している。
しかし,顧客等の人的関係それ自体,保護されるべき使用者の正当な利益に含まれることは判例,学説上ほぼ異論のないところであり,平成7年就業規則制定の趣旨も,原告が多大の費用と労力を費やして獲得した顧客を退社した従業員から奪取されることを防止するところにあるのだから,原告を退社後,原告の従業員として知り得た顧客,取引内容,価格等に関する情報を利用して,かつて直接担当していた原告の顧客に対し営業活動を行い,顧客を奪取する行為が本件誓約書及び平成12年就業規則28条の定める競業避止義務により禁止され,これに違反する行為が違法性を帯びることは明らかであるし,被告は,原告がD社に開示した顧客名簿に基づいて営業を行ったものではなく,原告の従業員として知り得た原告の営業秘密を使用して競業を行い,顧客を奪取したものであることも明らかである。
さらに,原告がD社に対し,顧客の氏名,住所,電話番号及び「マット,モップ」「浄水器」「空気清浄器」といった大まかな商品の分類しか記載されていないフランチャイズ契約終了時の顧客名簿を開示したことをもって,最新の顧客情報(業種,担当者,決裁者,個別的要望等)や取引内容にかかわる情報(各顧客に提供している具体的商品,数量,価格,値引きの有無及び割合,契約期間等)が営業秘密としての価値を喪失するものでないことも明らかである。
したがって,いずれにしても,被告の行為は,本件誓約書及び平成12年就業規則の定める競業避止義務に違反し,不法行為及び債務不履行を構成することは明白である。
(被告の主張)
ア 原告の主張する被告の債務又は注意義務について
(ア) 原告の主張する債務又は注意義務は,いずれも平成7年就業規則27条及び旧誓約書に基づくものである。
ところで,平成7年就業規則27条は,ダイオーズ社退職後2年間,同種同業の企業に就業すること,または同種同業の営業を行うことを禁止するものであり,労働者の就職の自由及び営業の自由を著しく制限するものであって,労働者の生計の途を奪うことになりかねない制約である。なお,旧誓約書においては,一応「在職時に担当した都道府県及びその隣接都道府県」と地域を限定しているように見えるが,東京都と埼玉県に勤務した被告について言えば,東京都,埼玉県の外,千葉県,茨城県,栃木県,群馬県,長野県,山梨県,神奈川県が競業避止の対象地域となり,極めて広範囲の制限となって,地域限定の意味を有しない。
平成7年就業規則27条は,何らの代償措置を講ずることなく,退職後も,原告の顧客と全く関わりなく,同種営業を行うことまで禁止している点で既に違法無効の誹りを免れないであろう。
このように,平成7年就業規則27条による制約が広汎に失し無効を免れない場合に,限定解釈を行って一部でもその効力を認める必要があるかが問題となるが,就業規則は使用者が一方的に制定する規範であり,その規定による制約が広汎に失し無効を免れないときに,これに限定解釈を行ってその効力を認めることは労働者にとってどのような場合に有効になるのかという予測可能性を事前に与えることができず,労働者の行為規範となり得ないから,限定解釈を行って原告を救済することは許されないと言うべきである。
したがって,平成7年就業規則27条は,規定自体が違法無効と言うべきである。
(イ) 平成7年就業規則27条は,それ以前のダイオーズ社の就業規則にはなかった退職後の競業避止義務を定めるもので,労働者の職業選択の自由を制約する不利益をもたらす変更であった。
このような,就業規則の不利益変更については,労働者の既得の権利を奪い,労働者に不利益な労働条件を一方的に課することになり,原則として許されず,当該規則条項が合理的なものである場合に限り,その法的規範性が認められるというべきである。そして,合理性の有無は,具体的には,就業規則の変更によって労働者が被る不利益の程度,使用者側の変更の必要性の内容・程度,変更後の就業規則の内容自体の相当性,代償措置その他関連する他の労働条件の改善状況,労働組合等との交渉の経緯,他の労働組合又は他の従業員の対応,同種事項に関する我が国社会における一般的状況等を総合考慮して判断すべきである。
平成7年就業規則27条は,不利益に対する代償措置は,何ら設けられていないし,原告の顧客と全く関わりなく,同種営業を行うことも禁止している点で既に合理性はないというべきである。
したがって,平成7年就業規則27条は,就業規則の不利益変更の有効要件をみたしていないから,無効というべきである。
(ウ) 被告は,平成7年就業規則27条(ひいては平成12年就業規則28条)につき限定解釈を取って限定的に有効にすべきではないと思料するが,そのような解釈がとられた場合においても,競業の種類を原告の営業秘密を侵害して行う競業に限定する必要があろう。
営業秘密を侵害せずに,原告の顧客に営業を行い,契約を取ることは,まさに営業の自由,競争原理に委ねられているところであり,これを就業規則で制限するには相当程度の代償措置が必要とされるべきであるが,本件では何らの代償措置がとられていないので,営業秘密を侵害せずに原告の顧客に営業を行うことは禁止されないと解釈すべきである。
イ 原告の主張する被告の債務不履行又は不法行為について
(ア) 被告は,S商事とのサブフランチャイズ契約に基づき,同社から,D社のフランチャイズ事業に関わるノウハウ,情報の供与を受けることができ,そのノウハウ,情報に基づいて営業している。
玄関マット,モップ等のレンタル業においては,顧客を訪問すれば,顧客の業種,担当者等は容易にわかり,また,顧客がどのような商品をどのような価格でレンタルしているかは,顧客に聞けば教えてもらえるものであるから,要するに,玄関マット,モップ等のレンタル業での営業秘密は結局のところ顧客名簿に帰着する。
したがって,本件における原告の営業秘密侵害の主張の要点は,顧客が誰かという営業秘密を侵害したという点に尽きる。
(イ) 本件において,原告の顧客名簿は,被告との関係では法的に保護される営業秘密ではない。
すなわち,原告の顧客が誰かと言うことは,D社には開示されており,被告がその顧客に営業を行い,Dと(ママ)の契約を取ったとしても,原告の顧客が誰かということはD社のサブフランチャイジーである被告との関係では保護される営業秘密にはなっていない。
(ウ) したがって,限定解釈された平成12年就業規則28条を適用して,被告が「原告の営業秘密を侵害して行う競業」をしない義務を負うとしても,被告の行為は,同条違反にはならないから,不法行為又は債務不履行とはならないのである。
(2) 争点(2)について
(原告の主張)
被告は,原告に在職時に担当した営業地域に在する同業他社に就職し,原告の従業員として知り得た顧客,取引内容,価格等に関する情報を利用して,かつて直接担当していた原告の顧客に対し営業活動を行い,平成13年9月30日までに,原告の顧客のうち少なくとも別紙「顧客目録」記載の36件について,原告との契約を解約させた。
ところで,被告がかつて所属していた埼玉ルートセンターにおいては,平成12年12月から平成13年5月までの間に,新規開拓経費として1708万5538円を支出しているのに対し,同期間の新規顧客の売上高は113万1272円であるから,同ルートセンターにおいては新規の顧客を獲得するために,同一期間の新規顧客の売上高の15.1倍の費用を費やしていることになる。このことからすると,原告が被告の奪取した顧客を新たに獲得するためには,合計437万2703円の費用を要し,原告は被告の行為によって同額の損害を被ったというべきである。
したがって,被告は,原告に対し,債務不履行又は不法行為に基づく損害賠償として437万2703円及びこれに対する本訴状送達日の翌日である平成13年10月21日から支払済みまで民法所定の年5分の割合による遅延損害金を支払う義務があるというべきである。
(被告の主張)
顧客を取られたという場合の損害額は,当該顧客との取引で得ていた利益が損害となるべきであるから,原告主張の損害は,それ自体損害として認められないか,または,そのような損害があったとしても「相当因果関係」がないというべきである。
当裁判所の判断
第3 当裁判所の判断
1 事実の認定
証拠(〈証拠・人証略〉)及び弁論の全趣旨によれば,以下の事実が認められる。
(1) ダイオーズ社及び原告の営業態様等
ア ダイオーズ社は,従前,清掃用品,清掃用具,衛生タオル等のレンタル及び販売を目的とするクリーンケアサービス事業と,事務所等に無料でコーヒーメーカー等を設置し,定期的にコーヒーや砂糖などの商品を購入してもらうオフィスコーヒーサービス事業を主な事業としていた。
このうち,クリーンケアサービス事業は,原告が顧客にマット,モップ,空気清浄器,浄水器などを定期的に交換しながら継続的にレンタルするという事業(レンタル契約の締結)であり,主たる商品はマット,モップで,顧客の要望に応じて,さまざまな用途,材質,サイズ,色,数量の商品を提供している。
なお,この分野では,D社が市場における支配的地位を占めている。
イ ダイオーズ社及び原告のクリーンケアサービス事業における新規顧客開拓(セールス)は,飛び込み営業(次から次に事業所や個人宅を訪問して契約を取り付ける方法をいう。)が最も多く,商品説明の後に,興味を示した相手方に無料サンプルを渡して実際に使用してもらい,その後,再度訪問をして成約に至るという経緯をたどる。実際の成約率は200件から300件を訪問して1件程度である。
成約後の継続状況は,1,2か月で打ち切られるケースは少なく,1年以上継続しているケースが多く,10年以上継続しているというケースもある。
ウ ダイオーズ社及び原告では,「ルートマン」と呼ばれる営業担当の従業員が,各々決まった顧客を担当し,顧客別,商品別に1週間又は2週間,4週間に1回定期的に訪問して商品を交換している。このため,ルートマンは,長期的に担当した顧客と個人的な関係が強まっていく傾向にある。
原告では多くのルートマンが新規開拓営業(セールス)を掛け持っており,被告が所属していた埼玉ルートセンターでも全ルートマンが担当顧客訪問のほかに,毎日,新規顧客開拓(セールス)を行なっていた。
(2) ダイオーズ社及び原告の顧客名簿の開示等
ア ダイオーズ社は,D社とフランチャイズ契約を締結していた期間,顧客管理については自社に委ねられていたため,D社に対し,自社の顧客名簿を含む顧客に関する情報(業種,担当者,決裁者,個別的要望等)や取引内容にかかわる情報(各顧客に提供している具体的商品,数量,価格,値引きの有無及び割合,契約期間等)を開示していなかった。
D社とのフランチャイズ契約における契約上の地位を承継した原告も,D社に対し,自社の顧客名簿を含む顧客に関する情報や取引内容にかかわる情報を開示していなかった。
イ 原告は,平成12年7月14日,D社に対し,同社とのフランチャイズ契約を解約する旨の申入れ(意思表示)をした。
その後,D社が商品の出荷停止に及んだことから,原告は同年8月8日,D社に対し,債務不履行に基づく解除の意思表示をした。
その後,D社の申立てに基づいて,原告に対する顧客名簿の開示を求める仮処分命令が発せられたため,原告は,D社に対し,同年12月30日,当時の顧客名簿(氏名住所,提供商品の種類が記載されていたが,顧客の個別的要望や提供商品の具体的商品名,数量,価格,値引きの有無及び割合,契約期間等は記載されていなかった。)を開示した。
(3) 被告の競業行為等
ア 被告は,原告から懲戒解雇されてS商事とサブフランチャイズ契約を締結した後,原告在籍中に担当した顧客を訪問し(被告は,原告との取引単価の高い顧客を優先して訪問した。),「ダイオーズをやめてDで独立することになりました。よかったらDを使ってもらえませんか。」と申し出て,さらに,顧客から原告の提供する商品の値段を聞いて,それと同額程度の値段を提示して類似商品を扱うよう申し出て,原告とのレンタル契約を解約してもらい,S商事とのマット,モップ類のレンタル契約を獲得できることがあった(以下「本件行為」という。)。
これに対し,原告は,担当者を被告訪問先の顧客に派遣し,被告提示の値段よりもさらに低い値段を提示するなどして顧客維持に努めたが,結果として,平成13年9月30日の段階で,原告在籍中に被告が担当した顧客のうち本件顧客36件について,従前の原告とのレンタル契約が解約された(ただし,この顧客全員が被告を通じてD社と契約したわけではなく,またこれらの顧客が,どの程度原告とのレンタル契約を継続していたのかは不明である。)。
本件顧客についての原告の4週売上高は,合計28万9583円である。
イ 本件顧客の氏名,住所,取扱商品の種類(商品名ではない。)は,15番のT自動車を除き,すべて原告からD社に平成12年12月30日に開示されていた。
以上の事実が認められる。
2 争点(1)に対する判断
(1) 被告の原告に対する債務について
ア 前記第1の1(3)イのとおり,被告は原告に対し自らの署名押印がある本件誓約書を提出し,原告はこれを受領しているから,原告と被告は,本件誓約書の定めるとおり合意したと認めるのが相当であるところ,本件誓約書の提出に際し,原告が被告に許諾の自由を与えなかったことを示す証拠はない。
イ 本件誓約書に基づく合意は,原告に対する「就業期間中は勿論のこと,事情があって貴社を退職した後にも,貴社の業務に関わる重要な機密事項,特に『顧客の名簿及び取引内容に関わる事項』並びに『製品の製造過程,価格等に関わる事項』については一切他に漏らさないこと。」という秘密保持義務を被告に負担させるものである。
このような退職後の秘密保持義務を広く容認するときは,労働者の職業選択又は営業の自由を不当に制限することになるけれども,使用者にとって営業秘密が重要な価値を有し,労働契約終了後も一定の範囲で営業秘密保持義務を存続させることが,労働契約関係を成立,維持させる上で不可欠の前提でもあるから,労働契約関係にある当事者において,労働契約終了後も一定の範囲で秘密保持義務を負担させる旨の合意は,その秘密の性質・範囲,価値,当事者(労働者)の退職前の地位に照らし,合理性が認められるときは,公序良俗に反せず無効とはいえないと解するのが相当である。
本件誓約書の秘密保持義務は,「秘密」とされているのが,原告の業務に関わる「重要な機密」事項であるが,企業が広範な分野で活動を展開し,これに関する営業秘密も多種多様であること,「特に『顧客の名簿及び取引内容に関わる事項』並びに『製品の製造過程,価格等に関わる事項』」という例示をしており,これに類する程度の重要性を要求しているものと容易に解釈できることからすると,本件誓約書の記載でも「秘密」の範囲が無限定であるとはいえない。また,原告の「『顧客の名簿及び取引内容に関わる事項』並びに『製品の製造過程,価格等に関わる事項』」は,マット・モップ等の個別レンタル契約を経営基盤の一つにおいている原告にとっては,経営の根幹に関わる重要な情報であり,これを自由に開示・使用されれば,容易に競業他社の利益又は原告の不利益を生じさせ,原告の存立にも関わりかねないことになる点では特許権等に劣らない価値を有するものといえる。一方,被告は,原告の役員ではなかったけれども,埼玉ルートセンター所属の「ルートマン」として,埼玉県内のレンタル商品の配達,回収等の営業の最前線にいたのであり,「『顧客の名簿及び取引内容に関わる事項』並びに『製品の製造過程,価格等に関わる事項』」の(埼玉県の顧客に関する)内容を熟知し,その利用方法・重要性を十分認識している者として,秘密保持を義務付けられてもやむを得ない地位にあったといえる。
このような事情を総合するときは,本件誓約書の定める秘密保持義務は,合理性を有するものと認められ,公序良俗に反せず無効とはいえないと解するのが相当である。
ウ 本件誓約書に基づく合意は,原告に対する「事情があって貴社を退職した後,理由のいかんにかかわらず2年間は在職時に担当したことのある営業地域(都道府県)並びにその隣接地域(都道府県)に在する同業他社(支店,営業所を含む)に就職をして,あるいは同地域にて同業の事業を起して,貴社の顧客に対して営業活動を行ったり,代替したりしないこと。」という競業避止義務を被告に負担させるものである。
このような退職後の競業避止義務は,秘密保護の必要性が当該労働者が秘密を開示する場合のみならず,これを使用する場合にも存することから,秘密保持義務を担保するものとして容認できる場合があるが,これを広く容認するときは,労働者の職業選択又は営業の自由を不当に制限することになるから,退職後の秘密保持義務が合理性を有することを前提として,期間,区域,職種,使用者の利益の程度,労働者の不利益の程度,労働者への代償の有無等の諸般の事情を総合して合理的な制限の範囲にとどまっていると認められるときは,その限りで,公序良俗に反せず無効とはいえないと解するのが相当である。
本件誓約書の定める退職後の秘密保持義務が合理性を有することは前記イのとおりである。そして,本件誓約書による退職後の競業避止義務の負担は,退職後2年間という比較的短い期間であり,在職時に担当したことのある営業地域(都道府県)並びにその隣接地域(都道府県)に在する同業他社(支店,営業所を含む)という限定された区域におけるものである(隣接都道府県を越えた大口の顧客も存在しうることからすると,やむを得ない限定の方法であり,また「隣接地域」という限定が付されているのであるから,これを無限定とまではいえない。)。禁じられる職種は,原告と同じマット・モップ類のレンタル事業というものであり,特殊技術こそ要しないが契約獲得・継続のための労力・資本投下が不可欠であり,D社が市場を支配しているため新規開拓には相応の費用を要するという事情がある。また,使用者である原告は既存顧客の維持という利益がある一方,労働者である被告は従前の担当地域の顔なじみの顧客に営業活動を展開できないという不利益を被るが,禁じられているのは顧客収奪行為であり,それ以外は禁じられていない(本件誓約書の定める競業避止義務は,原告の顧客以外の者に対しては,在職時に担当したことのある営業地域(都道府県)並びにその隣接地域(都道府県)に在する同業他社(支店,営業所を含む)に就職をして,あるいは同地域にて同業の事業を起して,営業活動を行ったり,代替したりすることを禁じるものではない。)し,マット・モップ類のレンタル事業の市場・顧客層が狭く限定されているともいえないから,本件誓約書の定める競業避止義務を負担することで,被告が原告と同じマット・モップ類のレンタル事業を営むことが困難になるというわけでもない。
もっとも,原告は,本件誓約書の定める競業避止義務を被告が負担することに対する代償措置を講じていない。しかし,前記の事情に照らすと,本件誓約書の定める競業避止義務の負担による被告の職業選択・営業の自由を制限する程度はかなり小さいといえ,代償措置が講じられていないことのみで本件誓約書の定める競業避止義務の合理性が失われるということにはならないというべきである。
これらの事情を総合すると,本件誓約書の定める競業避止義務は,退職後の競業避止義務を定めるものとして合理的な制限の範囲にとどまっていると認められるから,公序良俗に反せず無効とはいえないと解するのが相当である。
エ 被告は,旧誓約書及びこれを引き継いだ本件誓約書に基づく合意についても,就業規則の不利益変更と同様の検討を加えるべきであると主張するが,旧誓約書及び本件誓約書に基づく合意は,就業規則の制定・変更とは異なり,いずれも使用者である原告の一方的な行為ではなく,これらについて就業規則の不利益変更と同列に扱うことはできないから,採用することができない。
オ 以上のとおり,被告は,原告に対し,本件誓約書に基づく合意に基づいて,本件誓約書の定める秘密保持義務(債務)及び競業避止義務(債務)を負っていると認めるのが相当である。
(2) 被告の債務不履行の有無について
本件顧客はすべて原告に在籍していた時の被告の担当であるところ,被告は,S商事(ないしはこれとフランチャイズ契約を締結して商品を供給しているD社)が原告と同業であることの認識(被告が在籍していた原告がかつてD社とのフランチャイズ契約を締結していたことから認められる。)のもと,あえてS商事とサブフランチャイズ契約を締結して,これら原告の顧客を訪問して本件行為をしたものである。
もっとも,被告とS商事とはサブフランチャイズ契約に基づく関係でもあり,被告が原告在籍中に知り得た秘密(顧客名簿記載の情報に限られない。)をS商事又はD社に開示せずに自ら営業活動をしたにすぎないという可能性を否定できないから,被告がS商事又はD社に自らが知っていた顧客情報を「漏えい」したことを認めるに足りる証拠はないといわざるを得ない。
しかし,被告が原告がD社に開示した顧客名簿記載以外の顧客にも訪問し,訪問の仕方も大口の顧客が優先されていたことからすると,少なくとも顧客情報を利用して,退職時2年以内に在職時に担当したことのある営業地域であるさいたま市にて同業の事業を起して,原告の顧客に対し営業活動を行ったものというほかない。
したがって,被告の本件行為は,本件誓約書の定める競業避止義務(債務)違反という債務不履行に該当すると認めるのが相当である。
3 争点(2)に対する判断
被告の本件行為により本件顧客のレンタル解約を継続できなくなったのであるから,被告の負担すべき損害賠償額の算定においても,本件顧客における原告の従前の売上高を基礎に置くことが相当である(本件顧客には,被告が獲得できなかった顧客も含まれているが,いずれの顧客も被告の訪問がなければ原告とのレンタル契約を継続していたものと認めることができるから,被告の獲得の成否に関わらず,本件顧客全員についての売上高を損害額の算定の基礎に置くのが相当である。)。
もっとも,原告は顧客奪取による損害を被ったのであるから,その損害額は,奪取された当該顧客との取引で得ていた利益を基本とすべきであるところ(原告主張の損害算定方法は必ずしも相当ではない。),本件顧客についての4週売上高は合計28万9583円であること,また,一般的に,原告におけるマップ,モップ類のレンタル契約は1,2か月以上継続することがほとんどであり,1年以上継続されることも多いこと,一方,本件顧客の原告とのレンタル契約開始日が不明であること,レンタル契約維持の費用も相当程度かかること等の事情を考慮すると,本件行為により原告が失った利益を基本とする損害額は120万円であると認めるのが相当である。
したがって,被告は,原告に対し,債務不履行に基づく損害賠償として120万円及びこれに対する本訴状送達日の翌日である平成13年10月21日から支払済みまで民法所定の年5分の割合による遅延損害金を支払う義務があると認めるのが相当である。
4 結語
以上の次第であり,原告の本訴請求は,被告に対し,損害賠償金120万円及びこれに対する平成13年10月21日から支払済みまで民法所定の年5分の割合による遅延損害金の支払を求める限度で理由があるからこれを認容することとし,その余は理由がないから棄却することとする。
よって主文のとおり判決する。
(裁判官 鈴木拓児)